還らない人たち

       
 
 「治安維持法違反」で逮捕された朴聖南さんは、1943年に「京城刑務所」から海南島に連行された。
 夫の帰りを待ちながら1991年に亡くなった朴聖南さんの妻、李順女さんは、「風のように出ていき、風のように帰ってくる人だ。  また風のように帰ってくる」と、子どもたちに話していたという。
 朴聖南さんの弟、朴承執さんは、解放後も兄が戻ってこないので、「京城刑務所」を訪ねた。 そのときはじめて、看守から、兄が海南島に送られたこと、海南島に送られた人はほとんど戻ってきていないということを聞いた、という。  
「発掘現場」を訪れた朴聖南さんのむすこさんら(2001年1月)


朴聖南さん(1914年生)




朴聖南さんの一男朴奎秉さんが京畿道高陽郡知道面長にだした「不在者確認申請書」

金忠孝さん(1936年生)
金忠孝さん
 「日本海軍基地のあった慶尚南道鎮海で生まれ、釜山に移って小学校にはいった。学校では、朝鮮語は禁止された。 友達と朝鮮語で話したら日本人教師になぐられた。
 学校にはいった年に、叔父の金慶俊が徴用されそうになったので逃げたが、捕まってしまった。  最後に姿を見たのは、釜山の裁判所だった。編み笠をかぶせられていた。
 わたしの父、金鉄珎は船を持っていたが、船も父も日本軍に徴用された。その船は、魚雷にやられて沈没し、父も死んだ。 日本に殺されたのだ。父は二男で、叔父は三男だった。
 叔父は背が高く、がっしりした、やさしい人だった。捕まったとき結婚したばかりで、叔母の金鳳業は妊娠していた」。



 金慶俊さん(1914年生)は、石碌鉱山に連行され、まもなく死亡した。
 その事実が、戸籍簿に記載されている。






 
金慶俊さんの戸籍簿
 
前ページ   TOPに戻る 次ページ